ローガン山

ローガン山(Mount Logan)またはローガンは、ユーコン準州にあるカナダの最高峰であり、またデナリ(マッキンリー)に次ぎ、北アメリカ大陸で二番目に高い山である。標高は5,959 m。世界で最も大きな山麓を持つといわれており、しかもその山麓は全て広大な氷河に覆われている。この特殊な立地条件のために、道路から見ることができず、ローガン山を見る為には、航空機を利用しての遊覧飛行する必要がある。

名称

カナダの地理学者であり同時にカナダ地質調査部(Geological Survey of Canada)の設立者でもあるウィリアム・エドモンド・ローガン卿にちなみ、命名された。

特徴

ローガン山はユーコン準州の南西部、クルアニ国立公園・保護区内に位置する。ローガン山上および周辺部は極寒である。標高5,000mを超える峰の上では、気温は冬季で約-45℃、夏季で0℃付近であり、年間平均気温は約-27℃である。カナダ最高峰として登山家の目標となっているローガン山だが、気候的に非常に厳しい地区であり、1991年には南極を除く場所で最も寒い、マイナス77.5度を記録した。

地形

ローガンは5,000m以上の頂を11個持つ。また、ハバード氷河およびローガン氷河の源でもある。ローガンの標高は5,959mだが、造山活動が現在も続いており、今でも標高が徐々にではあるが高くなっている。現在は1992年に観測登山隊が測量した標高が公式の標高となる。

登頂歴

1925年6月23日、アルバート・H・マッカーシーを隊長とするカナダ・イギリス・アメリカの登山家からなる国際登山隊が初めて登頂に成功した。

テッド・デビアス

テッド・デビアス(Theodore "Ted" Marvin DiBiase Sr.、1954年1月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。WWF(現・WWE)ではミリオンダラー・マン(The Million Dollar Man)のニックネームで活躍した。

ウエスト・テキサス州立大学の出身で、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの後輩に当たる。

来歴

デビュー前後

往年の名レスラー、"アイアン" マイク・デビアスを父に持つが母の連れ子であるため血縁関係はない。15歳の時に心臓発作で父を亡くし、その後はアリゾナ州の祖父母のもとに預けられる。高校卒業後はテキサス州のウエスト・テキサス州立大学に進学してアメリカンフットボール部に所属しつつ(同期にティト・サンタナ、タリー・ブランチャード)、ザ・ファンクスのもとでトレーニングを受け、大学中退後の1974年にプロレスラーとしてデビュー。以降、アマリロ、セントラル・ステーツ、ミッドサウス地区で活躍。

1979年、ニューヨークのWWFに短期間参戦し、当時保持していた北米ヘビー級王座をパット・パターソンに奪われている。これがインターコンチネンタル王座と改名され現在に至っている(北米ヘビー級王座は同年11月にパターソンを破った坂口征二が第3代の王者となり、以降は新日本プロレスが管理)。その実力で早くから注目され、1978年2月にディック・スレーター、1980年11月にケン・パテラを破り、NWA世界ヘビー級王座の登竜門といわれたミズーリ・ヘビー級王座を2度獲得。一時期はリック・フレアーと並び「次期NWA王者最有力候補」とも呼ばれた。

全日本プロレスでの活躍

1976年8月に全日本プロレスにファンク一家の一員として初来日を果たし、以降も技巧派レスラーとして参戦を続ける。しかし1981年末のスタン・ハンセン全日本移籍の報復措置として新日本プロレスから誘われ、キラー・カーンの仲介で契約寸前まで行くも、団体間で紳士協定が結ばれ移籍は白紙撤回された。

1985年に新日本に移籍したブルーザー・ブロディに代わりスタン・ハンセンのパートナーとなり、PWF世界タッグ王座を獲得、さらには同年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝を果たす。1983年には天龍源一郎との決定戦を制し、アントニオ猪木・坂口征二・高千穂明久・ジャンボ鶴田と受け継がれたUNヘビー級王座を獲得した。

ミリオンダラー・マン

1980年代はビル・ワットのMSWAを主戦場としていたが、1987年にWWFに再登場。「急逝した父親の莫大な財産を受け継ぎ、一生遊んで暮らすこともできるが、暇を持て余しているので暇潰しにプロレスをやることにした」という、嫌味な金満ギミックのミリオンダラー・マンとしてヒールで活躍。その金満キャラゆえ、現在でも設定上「配管工の息子から成り上がった」 "アメリカン・ドリーム" ダスティ・ローデスを嫌悪している(もっともダスティを嫌う理由は「先に殿堂入れされたから」というものもある)。ちなみに、黒人ボディーガードとして従えていたマイク・ジョーンズのリングネーム "バージル" は、ダスティの本名でもある。

WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツらトップスターと長期間に渡って抗争。タッグでは、IRSことマイク・ロトンドとのマネー・インコーポレーテッドでWWF世界タッグ王座を3度奪取した。

1994年からはマネージャーとしての活躍が主となり、ミリオンダラー・コーポレーションなるヒール軍団を組織してブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと敵対。スティーブ・オースチンらが彼のもとで実力をつけ、後に団体を牽引するトップスターへと上り詰めている。この間、1990年4月1日の日米レスリングサミットではアルティメット・ウォリアーのWWF王座に挑戦して敗れている。

全日本プロレス復帰

1993年、一時全日本ブロレスに復帰。ハンセンとのコンビを復活させて世界タッグ王座を獲得。同年の最強タッグでもハンセンと組んで出場したが序盤で負傷帰国、ハンセン&ジャイアント馬場のタッグチーム実現の伏線となった。

引退

1996年にWCWに移籍、nWoのマネージャーになるが首の故障が癒えず引退。引退後は宣教師に転身し、チャリティ活動を行いつつ、プロレスのリングにも時折登場する。2005年に2人の息子マイク・デビアス、テッド・デビアス・ジュニアがプロレスラーとしてデビュー、継父も含めて親子3代でプロレスラーとして活動することとなった(後に三男のブレット・デビアスもデビュー)。

現在は宣教師活動の一方、WWEでプロデュース業務を担当している。2009年7月6日にはRAWのホストを務めた。